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朽木誠一郎 の あまのじゃく日記

ごめんなさいと念のため

インプットとアウトプットとの大小関係は個人と組織のどちらに幸福の主体を置くかで決まる

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涼しさを体の中に目一杯吸い込んでもなお涼しく、立派な屋敷の電柵が傍らでパチパチと鳴る様な夜道だ。よく行くカフェみたいな場所で作業しようとパソコンを開いたものの、わずかばかり油断があってうたた寝をしていた。なにかわるいことをしたような気分になるけれど、眠い時は眠るでいいはずだと思い直す。今日は休日じゃん。

意識的にインプットをするようにしている。これまではインプットの余裕がなかった。あるものから及第点をアウトプットするのはすっかり得意だが、僕はそれをしたかったのだっけか。薄い地力で何度なく自分や周囲の窮地を脱してきたけれど、今の自分が納得する水準で世の中に出せたものは振り返ると僅かばかりだ。

インプットとアウトプットの関係は記事制作にわかりやすい。ネットの情報をあちこちから引っ張って来て体裁を整えた記事と、見識の深い対象に取材をしたり自分で手を動かしたりした記事を比較すれば、インプットがなくてもアウトプットはできるが、インプットのあるアウトプット以上にはならない、とわかる、ような気がする。

だが、インプットにはコストがかかる。インプット大なりアウトプットの関係を維持するにはそれを許容する仕組みが必要だ。そうできているアウトプットとできていないアウトプットがあるのはなぜか。僕はそれを幸福の主体を個人に置くのか組織に置くのか次第だと思っている。有り体に言えば個人やその延長線でやりたいことをやるのは組織として利益を追求するほどには儲からない、それが理由なのではないか。

売り上げが先かクオリティが先かはポジショントークになるので差し控えるが、社員十数人の制作会社とDPADKでどちらがよりインプットを重視できるかと言えば、あれ、これはどっちも同じくらいかもしれない。少数精鋭の制作会社も最大手(ちょうトップ)の広告代理店も、制作環境に余裕があるという意味では似通っていそう。

インプットが蔑ろになりがちなのはその中間に位置するような規模の組織において意思が弱い人間、詰まるところ僕のようなものだと自戒しておく。構造上は組織において個人はそれぞれの売り上げ目標を達成する責務がある(組織も余裕がある制作環境を準備する責務があると思う)一方、個人や個人の延長であれば利益はそこそこでもいい、納得できるかどうかを重視するだろう。

組織の幸福は個人の幸福にも通ずるので一概に言えないが、組織の幸福イコール利益、個人の幸福イコール納得だとして、組織の利益とそこから派生する諸般の事情、具体的に納期や単価の設定はインプットと親和性が低く、であればこそクリエイティブが粗製乱造されることをいつでも警戒するべきだ。個人の納得はもちろんインプットと親和性が高い。納得できないなら利益を差し置けるので。

ジュラシック・ワールドを観に行って、翌日もう一回観に行った。街を歩く時はできるだけ看板を見たり、流れる音楽を聞いたりする。余裕がないと気が付けないことが社会には溢れていて、それを知っていても、知っていなくても、毎日を生きる上では大差がない。だけどちょっとずつ積み重ねればもう少しいい人間になれる気がして、外に出る。