朽木誠一郎 の あまのじゃく日記

ごめんなさいと念のため

座右の銘は不老不死

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あるいは憎まれっ子この世にHA☆BA☆KA☆RU

今となっては医学になにひとつ魅力も興味もない、と思ったけど1000年生きたい。なんの苦労も制限もなく、キリスト教における暴食と色欲と強欲と憂鬱と憤怒と怠惰と虚飾と傲慢のすべてを体現してなお1000年生きたい。

 

頑張れ、医学!

 

ちなみに、前述した七つの大罪をはじめて定義したのは4世紀のエジプトの修道士であるところのエヴァグリオス・ポンティコスだそうです。

エヴァグリオス・ポンティコス。

素敵な、名前です。

 

そんなわけで生まれ変わったら私はコンテンツになりたい。中居くんが丸刈りになった戦争映画を僕は観ていないけれど、貝よりかはいくぶんコンテンツのほうが人生を賭けるに値するんじゃないかと思うんだ。

コンテンツになればハートもクラウド上に安全に保存できるから傷つかない。嫌になったらサポートを修了してしまえばいいのだ。作っては止めを繰り返し、つぎつぎと新しいコンテンツを産み出して永遠の生命を授かるのはどうだろう。暗いよ!

 

虚栄心と自尊心と嘘と胃袋がだいたい5:3:2:1くらいの割合で構成されている僕のような人間にとって、ネットでお笑いをするというのはおそらく自分の殻を破ろうとするための行為だったのだと思う(貝だけに)。

僕はずっと違う人間になりたかった。でも、なれないと思っていた。ロボコップだってそうだったじゃないか、機械になる前の自分の記憶がいつでも彼を苛むのだ。自由に生きている他人がうらやましいくせに、医者以外は負け組だと思い込んで生きていた。

結局はもう一歩を踏み出すかどうかの違いだけだったんだけど、別の人生を手に入れた僕を今苛むのは、医者になれば返済しなくてよかったはずの数百万円の奨学金である。自由には代償がつきものだ。

 

僕が死んでもネットの海のどこかにコンテンツは残る。核戦争でも勃発して世界中のサーバがすべて一時に消し飛ばない限り、僕がつくったもの、それはつまり僕が考えたこと、やったことがアウトプットされた僕の一部はどこかにチカチカと存り続ける。

SEKAI NO OWARIでもやって来ない限り、クリエイターとしての僕は永遠の生命を得たのと一緒だ。僕はデモという主張の手法がバイラルメディアが使い回されたネタばかり垂れ流すのと同じくらい大嫌いだけどこのときばかりは右も左もなく一緒に叫ぼう。

 

NO WAR!

 

とはいえこれまで目立った企画としては合法ハーブ料理にグラドルのストリップとわりとクソみたいなことしかしてないから、「(おれが)死んだらたぶん地獄に落ちるな」って後輩に言ったら、「でもお世話になってるから天国は無理でも沖縄あたりには行けますよ」って返されて、ああ僕が死んだら南国でシーサーとか鬼瓦みたいなのになってずっとそこの家族を守るのか、それはそんなに悪くないなって思った。

あまちゃんみたいな女の子だといいな。